「私の好きなシングルモルトウイスキー」 第3話
長藤  知一
 最終第3話は日本のウイスキーの父と言われる「竹鶴正孝」の話をしながら「私の好きな
シングルモルト」のまとめとしたい。
 明治の後半、使命感溢れる25歳の竹鶴青年は、単身スコットランドのグラスゴー大学に留学し
ウイスキーの製造を座学で更にグレンリベットの蒸留所に通い実際の作り方を学び取ってきた先駆者
として大いに評価できる。
当時の日本、世界の状況から並大抵ではない苦労の連続であったと想像できる。
スコットランドからウイスキーの作り方を持ち帰ってきた竹鶴青年は派遣先の摂津酒造の経営不振と
金融恐慌で直ぐにはウイスキーを作ることができなかった。
そのような状況の中、壽屋(サントリーの前身)の鳥井社長よりウイスキー製造の依頼を受け,日本
最初のウイスキー作りに着手した。
そうして1924年に壽屋山崎蒸留所が完成し、5年後の1929年に国産第1号ウイスキー「白札」が
発売された。スコッチに遅れること約400年である。
また竹鶴青年は留学が終えるとカーカンテロフ町の医者カウン家の4姉弟の長女リタを妻として連れて
日本に帰国した。
日本に来たリタは優れたすばらしい人で竹鶴正孝の妻として日本のウイスキー作りに陰で大いに
貢献したと断言しても過言ではないかと思う。
1962年に来日した英国ヒューム副首相は政府主催の歓迎パーティーの席上「頭の良い日本の青年
が、1本の万年筆とノートで英国のウイスキー作りの秘密を盗んでいった。」と語った。
その時、竹鶴正孝は「とんでもないウイスキーを日本で作ったおかげで大きな市場となったのでは
・・・・・」とユーモアで返したと言われている。
竹鶴正孝は「ウイスキーの味を左右するのは、「優れた自然と心がまえだ。」と言い続け、1979年
85歳で逝去した。
この話は明治維新後の国家をあげての近代化に生命をかけた明治のすばらしい日本人の
心意気を感じられずにはいられない。
このような日本のウイスキー作りの創生期があってこそ今我々がウイスキーを飲めるようになったと
感謝しています。
詳しくは新潮文庫の「ヒゲのウイスキー誕生」を一読下さい。
 最後にシングルモルトが生まれた風土、歴史を理解すべくスコットランドを訪れ、是非蒸留所巡りを
されることをお薦めしたい。
そうして自分の舌にぴったり合ったシングルモルトを探し当て最高の喜びを感じて下さい。
またスコットランドは歴史のある必見の値するすばらしい所ですので蒸留所以外の旧所名跡を
訪ねて見聞を広めて下さい。
スコットランドは偉人を多く輩出しており、国富論のアダム.スミス、蒸気機関のジェームス.ワット、探検家の
デビット.リビングストン、鉄鋼王のアンドリュー、カーネギー、タイアのジェン.ダンロップ、発明家のグラハム.ベル、
ジキル博士とハイド氏のロバート.スティーブンソン、細菌学者のアレクサンダー.フレミング、幕末の商人トーマス.
グラバー他の生家,縁の地も回れます。
その他にもゴルフ発祥の聖地セントアンドリュースを始めとして由緒あるゴルフ場、小中学校で習った
音楽スコットランド民謡、古城他にも巡り合うことができます。
特にシングルモルトが一箇所に一番多く陳列されているグラスゴーのヒルトンホテルのバーでシングルモルトを
飲まれることをお薦めします。
宿泊料金は少し高いですが、このホテルに宿泊しバーでシングルモルトを飲みながら静かな時間を
過ごせば最高な気分を味わうことができます。
ちなみに小生は以前このホテルに宿泊した時につたない英語を駆使しこのバーのシングルモルトの
メニュー「MALT WHISKY TRAIL MENU」を入手し今も大事に保管しています。
小生の家には過去7度スコットランドを訪れた際に買ってきたシングルモルトがありますので(品名と
数量は秘密)機会があればお立寄りを・・・・・・・
  「私の好きなシングルモルトウイスキーに乾杯!」
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